日本の城の歴史はどう移り変わった?|環濠集落・古代の城柵から中世の山城、石垣と天守の近世城郭、一国一城令と廃城令まで
日本の城は、弥生時代の環濠集落から古代の城柵、中世の山城、そして石垣と天守を備えた近世城郭へと姿を変えてきました。なぜその時代にその形が必要だったのかという因果で、城の歴史の流れを一本につないで整理します。
日本の城の歴史は、「守るための工夫が、その時代の戦い方と政治のかたちに合わせて姿を変えてきた歴史」として捉えると、驚くほど見通しがよくなります。城といえば高く積まれた石垣と白い天守を思い浮かべる方が多いと思いますが、あの姿が生まれたのは、長い城の歴史の中ではむしろ終盤に近い出来事です。
この記事では、(1)守るための集落から古代の城柵へ、(2)山を頼りにした中世の城、(3)石垣と天守を備えた近世城郭の登場、(4)江戸時代の城と一国一城令、(5)明治以降に城がたどった道、という順に整理します。年号を単独で暗記するのではなく、「なぜその時代にその形が必要だったのか」という因果でつなぐと、個々の城の知識も収まるべき場所に収まります。
城のはじまりはいつ?|環濠集落と古代の城柵
城とは、敵の攻撃から人や土地を守るために、堀・土塁・柵・石垣などで区画してつくられた施設のことです。この定義に立つなら、日本の城の源流は弥生時代の環濠集落までさかのぼるとされます。天守も石垣もない時代から、城の本質である「区画して守る」という発想はすでに始まっていたわけです。
環濠集落は、周囲を濠(ほり)と柵で囲んだムラのことで、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が代表例として広く知られています。稲作が広まり、土地・水・収穫物をめぐって争いが起きるようになったことが背景にあるとされます。守るべき富が生まれたときに、守るための構造物も生まれた、という関係です。
時代が下って古代の国家が形づくられると、東北地方の統治拠点として城柵(じょうさく)が置かれました。多賀城が代表例として知られています。城柵の特徴は、軍事施設であると同時に、政庁つまり役所としての機能を併せ持っていた点にあります。また7世紀後半には、大陸での敗戦を受けて防衛体制を固める必要が生まれ、大宰府を守る水城や、大野城をはじめとする山城が九州から瀬戸内にかけて築かれたとされます。このうち山城は大陸から伝わった築城技術の影響を受けたと考えられ、朝鮮式山城と呼ばれます。ここまでの城に共通するのは、主役が土と木と地形であり、高石垣も天守もまだ登場していないという点です。
中世の城はなぜ山の上にあるのか?|山城と「土の城」の時代
中世の城が山の上に築かれたのは、地形そのものを防御力に変えられるからです。高い所を押さえれば、少ない兵でも攻め手を押しとどめられ、周囲を見渡して敵の動きを早く知ることもできます。土木工事の量を地形で肩代わりさせる、きわめて合理的な選択でした。
南北朝の争乱から戦国の世にかけて、各地の武士は自分の領地を守るために数多くの城を築きました。中世の山城は、尾根を平らに削って造った曲輪、尾根を断ち切って敵の進路を遮る堀切、斜面を縦方向に掘って横移動を封じる竪堀、斜面を人工的に削り立てた切岸といった要素で構成されます。いずれも土を掘る・盛る・削るという工事でつくられるため、この時代の城は「土の城」と呼ばれます。石垣が主役ではないので、現在は城跡として地形だけが残っている例が多く、地形を読む目が必要になる分野です。
領国の支配が進むと、山上に非常時のための詰の城を置き、麓には平時の生活と政務のための居館を構えるという、二つをセットで使う形も見られるようになったとされます。さらに火縄銃が伝わると、遠くから狙われることを前提にした造りへと工夫が重ねられていったとされます。武器と戦い方が変われば城も変わる、という関係は、このあとの時代にも一貫して当てはまります。
石垣と天守はいつ生まれた?|織豊期に成立した近世城郭
高い石垣・瓦葺きの建物・礎石の上に建つ大型の建築、そして天守を備えた城、すなわち近世城郭が成立したのは16世紀後半の織豊期とされます。中世の土の城から近世の石の城へという転換は、城の歴史の中で最も大きな断層です。
その画期とされるのが、織田信長が近江に築いた安土城です。高石垣の上に壮麗な高層建築を上げるという構成は、防御のためだけでなく、支配者の力を目に見える形で示す舞台としての性格を城に与えたとされます。続く豊臣秀吉の時代には、大坂城や京の聚楽第をはじめとして、この様式が全国へ広がっていきました。大名を動員した大規模普請の仕組みが、のちの天下普請につながっていきます。
同時に進んだのが、山から平地への移動です。近世の城は、山頂ではなく丘陵に築く平山城や、平地に築く平城が主流になっていきました。理由は、城が純粋な軍事拠点から、領国を治める政庁であり城下町の中心という役割へ変わったからです。人と物が集まる交通の便のよい場所でなければ、政治と経済の中心にはなれません。守りやすさを多少譲ってでも利便を取る、という判断が働いたわけです。こうした城を支えたのが、石垣を積む技術者集団や、瓦・大工・鍛冶といった職人たちで、近江の穴太衆は石垣の技術で知られた集団として伝えられています。
江戸時代から明治にかけて城はどうなった?|一国一城令と廃城令
江戸時代に入ると、城の数は大きく減りました。江戸幕府が出した一国一城令によって、大名の領国につき原則として一つの城だけを残し、それ以外を破却させたためです。17世紀初め、幕府が大名の統制を固めていく過程で出された措置とされます。
同じ頃に定められた武家諸法度では、城を無断で新しく築くことが禁じられ、修理についても届け出が必要とされました。この二つが重なったことで、城は「築くもの」から「維持するもの」へと性格を変えます。太平の世が続くと、天守は軍事上どうしても必要な建物ではなくなり、再建には莫大な費用がかかることもあって、焼失した後に再建されないまま済まされる例も出てきました。江戸城の天守が、大火で焼けた後に再建されなかったことはよく知られています。
明治になると、城はさらに大きな転機を迎えます。旧来の軍事拠点は新政府の管理下に置かれ、明治初期に出された太政官達、いわゆる廃城令によって、存城として残すものと廃城として処分するものが仕分けられました。廃城とされた城の建物の多くは、取り壊されたり民間へ払い下げられたりしています。加えて、その後の火災や戦災でも天守を失った城がありました。江戸時代以前の姿をとどめる天守が今日ごく限られた数しか残っていないのは、こうした近代以降の経緯によるところが大きいとされます。城跡に立つとき、そこに何が残っていないのかを知っておくと、残っているものの価値がよく見えてきます。
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日本城郭検定 対策問題道場編集チーム
株式会社狼煙(Noroshi Inc.)が運営するNorolu Beaconの編集チーム。 日本城郭検定の合格を目指す方を後押しできるよう、 城郭・歴史の資料を照合しながら、 ひとつひとつの記事を手作業で作成しています。
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